お気に入り落語
三遊亭白鳥さんの「真夜中の襲名」
これは林家三平襲名披露のお祝いの創作落語です。
白鳥さんの創作落語はハチャメチャで面白い!!
特にこの「真夜中の襲名」は傑作です。
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三遊亭白鳥さんの「真夜中の襲名」
これは林家三平襲名披露のお祝いの創作落語です。
白鳥さんの創作落語はハチャメチャで面白い!!
特にこの「真夜中の襲名」は傑作です。
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・上を向いて歩こう・
【悲しい食べ物】
実はラーメンが嫌いな私。あの麺が嫌いなんだ。(苦笑)
【全部ひらがな】
谷川俊太郎『クレーの絵本』です。
これを何の本にするか悩んだ。最終候補は二つあった。もう一つは東君平。
澤田の本、と考えると『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』あるいは角川文庫版『朝のかたち』でしたが、『クレーの絵本』にしたのは実際に書店ですぐ入手できるかという事も含めて「由加の好きそうな」という澤田の気配りです。(奴なら全部持ってそうだな)
【上を向いて歩こう】
これは何の曲にしようかなどと迷う事なく、すんなりと出た。名曲だな。
【美声だったろう】
と言われても。(苦笑)
諒介の声はparis blueの『友達のまま』の日比野信午さんの声をイメージしてます。
おおっ、それは美声だ!って曲まで指定するか!
【アレって何(笑)】
とうとう出ました、詩人のアレ。当然クサさが規定値を超えたのでギップルが出ました。しかもシリーズ最高のクサさ。(笑)
しかし書き直しませんでした。これ以上この私にどないせえっちゅうねん!
要するに私はラブシーンが苦手なのだ。5文字ごとに手が止まり、呆然と考え、額にコブを作り(爆)、あの数行を書くのに二日もかかった。
しかしこれも必要悪。←オイ(笑)
【そいつは盲点】
時間は作れるもの。しかし作ってばかりいると後で皺寄せるもの。
ええ、身をもって学んださ。(涙)
【Another Dream Player】
『プレイヤー』の発表以前から、表紙には『ネスト』までのタイトルが並んでいましたが、そこまで書き上げたのが5月、その先も含めて約200枚を全面書き直しと決めたのが7月。6月の『プレイヤー』p-3まで発表後の事でした。
全面書き直し、というのは内容そのものの変更です。本筋に変更はないものの、展開はかなり違ったものになりました。最初はどんな話だったんだろう…なんて想像したりしてもらえたら嬉しかったりします。
そんな訳で、この先はまったく書いていないのも同然、というのが現状です。
『テンダースポット』までかなりのハイペースで書いてきましたが、ここから先はゆっくり、大切に書いていきたいと思っています。いや、ずっと大切に書いてきたけどね。(苦笑)
読んでくれてありがとう。夢でお逢いしましょう。
Jul. 14, 1998
【追記】
この作品について特にコメントするようなことは何もないかな…と思いきや。
ありました、このあとがきについて(爆)。
今でも私はラブシーンを書くのが苦手なのですが。
これを書いた頃に比べると成長しましたね!!(なぜ力む?)
今後の展開の必要悪すなわちラブシーンはいったいどうなるのか。
敵(いつ敵に?)はワタクシ内でもっとも足の速い(かけっこもだが)澤田と諒介。
……大暴走必至!!(突っ伏し噴水涙)
「ネスト」脱稿以降、一年以上のブランク。
この間にも彼ら三人は少しずつ成長しました。
共に生きる私もちょっとは大人になったってことですかねえ。
2000.11.1
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部屋に戻る道に、坂の脇の公園の中を選んだ。
昼に見た夢とはやはり違う、噴水の周りの花壇の花は白と紫の他に黄色もあった。噴水の水の噴き出す所も形が違う。歩道のタイルはよく似ているが、そこを取り囲む外周の三段のステップが夢の公園にはなかった。その向こうの木もこちらの方が少なく、道路に駐車した車が見える。夢なんていい加減なものだと思いながら私はマンションを見上げた。夢のせいか、諒介と話がしたかった。魚のランプの灯る部屋に戻って夜が更けるのを待ってから、私は手帳を開いて諒介の部屋に電話をかけた。
「和泉です」と出た諒介に、由加です、どうも、と言いながら壁に向かって頭を下げた。
「……」
「……」
夢で用事を済ませてしまった気がするので、何から話せばいいのか判らなかった。
「…今日の昼間、澤田から電話があって、由加がまた消えたと言われて」
「澤田さんてば…」
恥ずかしくなってまた壁にお辞儀をした。
「それは…散歩してたら会社に戻るのが遅れてしまったの。お騒がせしました」
「散歩か」
「ごめん」
「それで、記憶が途切れていたりとかは」
「…ないよっ」
明るく言おうとしたら声がひっくり返った。電話の向こうからクククと聞こえた。
「で、どのくらい途切れているのかな」
「…勝鬨橋の、勝どき側から築地側に戻った筈なんだけど…」
「勝鬨橋からか」と言うと彼は何か考えているのか、しばらく黙り込んだ。「それで、すぐ澤田に会えた?」
「澤田さんはどのくらい探したのか言わなかったけど、私が隅田川テラスで気が付いた時には橋の上に居て」
「そうか。電話の間が一時間なかったから…。入力室の昼休みから一時間として…探したのは三十分弱かな」
私は昼間の出来事を思い出してかーっと赤くなった。眉間の辺りがじんじんする。眩暈がしそうだった。
「諒介、あの…夢…」
「夢?」
どう切り出そうかと迷っていると、「また面白い夢でも見た?」と訊ねられた。私は「諒介が私の夢にお邪魔しますと言って」と話して聞かせた。彼はクククと笑った。
「面白い。それも『バンドエイド・ブリッジ』に書くといい」
「……」
怪我をして以来、私は書きかけの小説を放り出したままだった。手が使えないよりも、考える事ができなかったのだ。ずっと余裕がなかった感じがする。
「それで、その夢の前後を覚えていないんだね?」
「うん」
ふーっ、と溜息が聞こえた。「由加、あの、」と言いかけて黙り込む。
「僕は…」
また黙ってしまった諒介に驚いた。彼が黙り込むのは珍しくないが、主語が『僕は』だったからだ。
諒介が自分の事を話そうとしている。きっと眼鏡を外して目をこすって。私は身動きもせずに次の言葉を待った。小声で「その、」と聞こえて緊張した。「澤田がーーー」と言ってまたふうと息を吐くので、その場にぺたんと座ってそっと深呼吸した。
「いや、その、由加に時間をくれと言って、待たせたまんま、もう…その、考えている間に次々と…」
次々と。
そうだろう。諒介が「待って欲しい」と言った元旦には、今日のような日が来るとはーーーそんな日を呼ぶ出来事がいくつも起こるとは思っていなかった。
最近、楽しかった事。お正月。
諒介と澤田さんと三人、料理をして、新年のカウントダウンをして、トランプをして、…その後、私が『居なくなった』けれど、諒介は私に「自分を切り離してしまわないで」と言った。三人で出かけた初詣も楽しかった。
つーっと涙が頬を伝って落ちた。諒介に気付かれないように息を殺した。
「澤田がね。由加を泣かせているのはおまえじゃないのか、と言ったんだ」
「え?」私は、ばれたか、と慌てて頬を拭った。
「僕は、その通りだと思っている」
「……」
「その、もう少し…時間があれば」
「あ、あの、澤田さんがね」
「はい」と諒介の声がひっくり返った。
「時間は作れるって言ってたよ。それで、諒介に教えてやれって」
「…澤田が?」
うん、と答えると彼はしばらく黙っていたが、フッと笑って「そうか」と言った。
「時間は作れるのか。そいつは盲点だったな」
「うん。そんで会社サボって時間作って遊びに行った」
「はは、そうだったのか」
諒介の声がいつもの調子を取り戻したので、私はほっとした。
「由加。市川さんにお兄さんの事は話した?」
「うん、それでチーフが退職じゃなくて休職するのはどうかって…あれ?私、話したっけ?お兄ちゃんの事」
「聞いたよ」
「…あれ?」
「寝惚けてる?」彼はクスクスと笑った。
「ばっちり目は冴えてると…自分では思っているのだけど…」
「大丈夫。もっと自信を持ちなさい」
と言いながら、まだ笑っていた。
「はっきり決まったら知らせて」
「判った」
「それじゃ、もう遅いから。おやすみ」
「おやすみなさい」
「またね。夢で逢いましょう」
「え?」
今何て言ったの、と訊いている間に、かちゃ、と電話が切れた。
聞き間違いでなければ、
夢で逢いましょう。
『由加の夢にお邪魔しています』
「まさかぁ?」と独りごちて受話器を置いた。深まる諒介の謎。
翌日の昼休みに五階の休憩所を覗いてみた。案の定、澤田さんは古田さんと中嶋さんと一緒に紙コップのコーヒーを飲んでいた。
「休職か。残すと教室に残されて」
「みんな俺を置いてドッヂボールに行ってまうねん、ってそれは給食」
「鯨の肉、残したねえフフフ」
私はテーブルの脇に立ってトリオ漫才を見下ろした。ちらり、と上目で私を見る澤田さんは苦笑いだ。私も笑いがひきつった。昨日の事のせいで気まずい。なるべく古田さんの方を見るようにしてチーフの話をした。「もう決めたの?」と訊かれて「あとは家族の説得のみ」と答えると笑われた。
「休むなら実家の方が楽なんじゃないの?」
「ええって、東京におれや。なあ?俺がいろいろ教えたる」
「本当?」
「そらもう手取り足取り腰取り」
「腰は取らなくていいから」
「あ、どこが腰だか判らん寸胴やった」
澤田さんの脳天に左拳を振り下ろした。「痛いわ」と彼は頭をさすりながら横目で私を見て笑った。今度はいつもの笑い顔だった。
「市川さんも気にしてたからねえ。泉ちゃんをうちに引き留めたのは彼女でしょう?それでうちで怪我してしまったからね。だから、休む事に対しても前向きになってくれたのは彼女も喜んでいると思うよ」
古田さんは目を細めてにっこりした。
知らなかった。
私が人事部に異動にならなかったのも古田さんの口添えがあったから、というのを思い出した。
ここは築地の街。
古い家々の屋根の向こうに空を突くビルが見える、時がマーブル模様を描く街。
角を曲がると、ふいに誰かの優しさが覗く。
私が働いているのはそんな街なんです。
「今の仕事が好きで、仕事を続けたいの。それを待っていてくれる人もいるから、帰らないでこっちで休んで、他の仕事もできるように勉強するつもりなの。もう先生もいるし」
「待っていてくれる人って」
「職場の人達」
「先生って」
「友達」
帰宅してすぐ静岡に電話をかけた。母は「うん、うん」と聞いていたが、「ちょっと待って」と兄に代わった。我が家で最も弁の立つのは兄なのだ。
「由加、その職場で」
「お母さんひっくり返ったらお兄ちゃんのせいだからね」
そこは築地の街。
私が力を蓄えるなら、こんな優しさを蓄えたいのです。
諒介が夢で訊ねた「由加は何をどうやって決める?」という問いの答えだった。
「今の会社が好きなの。そう思える会社って今までなかった。休みの間に一度帰るから」
「ちょっと待て」と兄は送話口を手で押さえたらしく、声がくぐもって聞こえなくなった。兄はしばらく両親と何か話していたようだったが、今度は父に代わった。「もしもし」と静かな声だ。私は富士の方角に頭を下げた。
「お父さん、お願いします」
「…好きにしなさい」
また兄が出て「言っとくけど兄ちゃんのお陰だぞ。肝に銘じておけ」と言った。私は、言われなくても判ってる、と思った。子供の頃から喧嘩ばかりしていても、いつだって兄は私の味方だったのだ。
『帰る所があるのはいい』
帰る所があるから、私はここで頑張ってみようと思う。
「本当に、大丈夫だから」
「…もしだめだったら首に縄着けてバイクで引きずって帰るからな」
電話を切って、今の会話を聞いた事がある、と気が付いた。
『僕は大丈夫だから』
『しばらく好きにさせてください』
諒介が正月に金沢のお母さんにそう言ったのだった。
兄に言わせれば、親が子供を心配するのは当然で、「大丈夫」はそのたびに答えるようなごく普通の言葉だと思う。そしてまた、そのたびに親は子供の好きなようにさせてしまうのだ。
私はその時の、目を閉じて「大丈夫」と言った諒介の顔を思い出して、「大丈夫」と声に出した。
私達は、大丈夫だ。
考え事をしながら入力室のドアを開けると、佐々木さんが私の顔を見るなり「どしたの泉ちゃん」と目を丸くしたので、「何が」と訊ねた。「ここ」と彼女は自分の眉間を指さした。私はぱっと眉間を抑えた。「やだな、もう…」
あれから夢を見ていなかったのだ。諒介のせいではないけど、「夢で逢いましょう」の意味を考えていたら眉間に皺が寄ってしまった。
彼女は椅子の背凭れをキイと鳴らして「ここんとこ、」と苦笑混じりに言った。
「ふらっと居なくなっちゃったり、みんな心配してるのだよ?何も言わないけど。それ判ってる?」
「…うん」
「うん。泉ちゃんはそれが判る子だよねえ。判っててそうなっちゃう、てのに私は疑問を感じていてさ。だからみんなが来ない今のうちに、ずばりと訊いてしまうけども」と、佐々木さんはミルキーペンをマイクのように私に向けた。
「澤田さんと何かあったでしょ」
「…何で判っちゃうの」私は赤面したのが判って俯いた。
「会社抜けて、そんで戻って来たり来なかったりっていうのは、会社に何かあるとしか思えないもん」
「…それで何で澤田さんに限定するの」
「泉ちゃんが居なくなる時は澤田さんとセットだもん」
思わず納得、そしてがっくり。私はデスクの脇にしゃがみ込んで、「みんなには内緒だよ」と前置きして、山口さんの事を話した。
「それで、その時は私がどうにも呆然としてしまったので、澤田さんが面倒見てくれたの。この前は…ちょっと散歩していたら呆然としてしまったらしくて、戻れなかったところを澤田さんが探しに来て…」
以下は省略した。何かあったのはそこだ。
「呆然と、ねえ…」
佐々木さんはミルキーペンで額をコリコリと掻いた。
「覚えてないのか、怪我ん時みたいに」
「うん…」
「判った、もうすぐ誰か来るから泣くな」
「うん」私は目をこすって鼻を啜った。
「もう一つ疑問なのがさ、怪我した次の日よ」
どきっとした。佐々木さんは真顔だ。
「消えた泉ちゃんを探しに出るなら入力の人間でしょう。それが何で開発の二人なの」
「諒介が二人を指名したから」
「和泉さんが?」
「私に何かあったら諒介の所に連絡がいくの。私がこんなんなっちゃって、諒介が古田さんと澤田さんに私を任せてるの。私の事を決めるのは諒介だよ」
「和泉さんが決めるの?何でそういうシステムになってるの」
「諒介は私を知っているから」
「知ってるって何を」
「実はこういう事、諒介がこっちに居た頃からなの」
「…そうだったんだ」
「内緒だよ」
「判った。…ふうん、澤田さんが連絡して、和泉さんが指示するのか…」
佐々木さんは大きな目を見開いてまっすぐに私を見た。「なるほど、和泉さんはほんとに勇者な訳だ。姫の途切れた記憶を探る旅か…いや、」と横目になってペンで頬をつつきながら、
「勇者は澤田さんか」
「え?」
「RPGで言えばね。和泉さんがコマンド指定して澤田さんが動く。…だけど…それじゃシナリオはどうなるんだ?謎自らが書いて記憶喪失、その上勇者が…うーん」
「なあに、さっぱりわかんないよ、ホームズさん」
「へえ?」ホームズと呼ばれて、佐々木さんは照れくさそうに笑った。
連休前で仕事の量が増えている。けれど焦る気持ちがないのは休むと決めたからだろう。気がつくと手も震えておらず、落ち着いてキーを叩いている自分が居る。心地好い緊張感。
原稿の束を取り替えて、デスクに戻る時に山口さんと浜崎さんの後ろを通って様子を見た。先週末に席換えをして、山口さんの隣に飯塚さんがついている。これからは判らない事は隣の席の先輩に訊いて学んでいくのだ。私は浜崎さんの隣の席についた。時折「すみません」と訊ねられる。一つ一つに答えながら、穏やかな気持ちになってゆく。休憩時間にトイレで泣こうとはもう思わなかった。ブザーが鳴って午前の休憩に入った。
「泉さん」と浜崎さんに声をかけられた。質問かな、と思いつつ振り向いた。浜崎さんは「あの、これ」と練習用のテキストのコピーを私に向けた。
「誰の何て本ですか?いいな、と思って。読んでみたいから」
「……」
私は微笑む浜崎さんをじっと見た。
「好きだな、こういうの。泉さんがわざわざ探してくれたんですよね?ありがとうございます」
「…それは…」私はさりげなく目頭を拭って笑いかけた。
「開発の澤田さんが教えてくれたの。澤田さんて密かに文学青年なんだよ。良かった、気に入ってもらえて」
浜崎さんのデスクに置かれたコピーの文字を見る。
『どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない』
良かった。インストラクターをやらせてもらって。
今度、夢で諒介に逢ったらそう言おう。
「俺が選んだ本や、当然でんがな」
澤田さんは「でんがな」の部分に力を入れて言い、夜空を仰いだ。
「照れてるでしょ」
「フン、誰が」
柳の枝がさわさわと揺れている。昼の暑さが過ぎて夜風が心地好い。築地川公園をゆっくり散歩しながらの帰り道だ。
「良かったな」
「うん」
今日の昼休みには、休憩室で昼食を採りながら、連休を機に休職する事も皆に話した。新人さん二人は驚いていた。山口さんは俯いてしまった。それを見たら、もういい、と思った。
「連休にね、佐々木さんがうちに遊びに来るの。森さんも誘ってみるって」
「ほー。ええな、おもろそうな顔ぶれ。俺も行こかな」
「う、うん…」
「何や…」と澤田さんはポケットに入れていた左手を出して、私との間の空間で手をぷらぷらさせた。
「ここに妖精さんの見えない30センチ定規があるような…」
「そんな。気のせい、気のせい」
と否定しつつ、澤田さんが一歩こちらに寄ると私も一歩逃げてしまう。彼はフッと苦笑して、遠くを見ながらぽつりと言った。
「バレンタインはほんのご挨拶やったな…。由加にとって俺は所詮ドラえもんなんや。カレーパンマンの和泉に比べたら」
「そんな、諒介と比べたりなんかしないよ」
「俺なんて…背も高いし男前やし料理も上手いのに、何で奴は『諒介』で俺は『澤田さん』やねん…」
「…『澤田』?」
「おい」
橋の脇の出口から通りに出て、新大橋通りへ向かった。外灯の作り出した影が後ろから私達を追い越して先に行き、長く伸びる。澤田さんはこちらを見ずに、また両手をポケットに入れて歩いていた。
「なあ、由加。和泉の言うた『待っとれ』て、どういう意味や」
「……」
「おまえ、ずっと待っとって、そんで泣くんか」
私は目の前に伸びた影が薄くなっていくのを見ながら考えた。
「待たされて泣いてる訳じゃないよ。待ってる間の自分の非力さを思い知らされてるだけ…」
「奴が何を言おうとしてるか知っとるか」
「私達は、何を言おうとしているのか、今、探しているんだよ」
「……」
「だから、私達が何を待っているのか、言えないんだ。探しているから」と言いながら私は澤田さんを見上げた。「それは判って」
「ふん…判った…。何やろな、それが見つかったらどうなるんやろ」
「わかんない…」
新大橋通りに出て立ち止まった。築地駅と新富町駅へ別れる所だ。それじゃ、と行こうとすると澤田さんが「由加」と呼び止めた。
「それが何なのか、怖くないんか」
「……」
「もし怖い事あったら言え。…そんだけや」
彼は少し困ったような顔でそう言うと、くるりと背を向けて歩き出した。
勇者の背中だ、とぼんやり思った。
佐々木さんに言われてみて初めて気付いた。正月に三人で見たテレビのように、諒介は箱の中の私を見ているみたいだ。夢に現れたり待たせたり、知ってる事を黙っている。澤田さんさえ、何も知らない。
漠然とした不安が広がってゆく。
でも、それは言わない。
「大丈夫だから…」
『僕を信用して』
目の前が滲んで、車のライトや信号の赤が目の中に広がった。
April*July 1998
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月曜日。朝のミーティングを終えて席に戻る。兄の言葉を思い出すたびにキーを叩く手が止まった。
『今の仕事にこだわる必要はないし』
けれど他に何が出来るだろう、と考えると不安になる。他の仕事などした事もない。
『東京に一人で居る事はないの』
ぼんやりと原稿を見ていると、原稿の束を持って歩いて来た飯塚さんが小声で「どうしたの」と話しかけてきた。大丈夫、と答えて再び手を動かした。薄いバッチを終えてみると、サスペンドを忘れていたため驚くようなストローク速度だった。今は仕事に集中しなければ。山口さんの「仕事が出来ない」という声が思い出されて手が震えた。
一人になりたいと思って休憩時間に入力室を出た。開発部のロッカー越しに古田さんが「泉ちゃん」と声をかけてきた。私は「トイレ」と答えて通路をポトポトと歩いてそのまま通り過ぎた。三つ並んだ個室のいちばん奥。すっかり馴染みの場所で、私は戸を閉めて鍵を掛けるとトイレットペーパーをくるくると引っ張った。
入力室に戻る時には開発の奥の席の澤田さんに「由加」と呼ばれた。私は足も止めずに「時間」とだけ答えた。目の端に、彼が腕組みをするのがちらりと見えた。
昼休みには外に出た。朝、コンビニで買ったおにぎりがあったが食欲がなかったのだ。食べずにいると皆が心配すると思って「澤田さんと食べに行く」と嘘をついた。
いい天気、散歩日和だ。会社のビルから裏道を選んで歩く。諒介のビデオで見た古い家を見つけた。こっちかな、と路地に足を踏み入れた。細い道を抜けるといきなり背の高いビル。いつか佐々木さんに連れて行ってもらった店のようだ。澤田さんが「いろんな時間があちこちから集まっとるみたいやな」と言ったのを思い出す。それなら築地の街は、そこかしこにタイムカプセルを隠しているのだ。路地裏で、曲がり角で、思いがけず誰かの時間が優しく見える。
晴海通りに出た。目の前に勝鬨橋があった。
勝鬨橋を渡りながら、上向き加減の視線、ビデオの映像を思い出しながら顎を上げる角度を決めた。
う え を むぅ い て、 あー る こ ぉ ぉ ぉう
知らず知らず『上を向いて歩こう』を口ずさんでいた。なるほど、上を向いて歩くとつい歌ってしまうものなのだ。
な み だ が、 こ ぼ れ、 な い よ ぉ ぉ に
おもい だ す はー る の ひ、
築地の駅前で、両手でメガホンを作った諒介を思い出した。
春の夕暮れ。西日に全ての輪郭が霞んで見えた。
諒介の声だけはっきり覚えている。
な み だ が、 こ ぼ れ、 な い よ ぉ ぉ に
『今度は一緒に橋渡るねん。橋の架かったもん同士、もっと大きい橋』
どうしよう。
静岡に帰ったら、三人、離ればなれになってしまう。
目の中を、鳩の影が次々と横切っていった。
な み だ が、 こ ぼ れ、 な い よ ぉ ぉ に
こぼれるなよ、と私は両手を横に伸ばしてバランスを取って歩いた。目の中に溜まった水で視界は白く滲んでいた。
ひ とぉ り ぼぉっ ち の よ る
噴水を囲む花壇に白や紫の花が揺れている。それらをぐるりと円形に囲むタイルの歩道。ベンチに影を落とす棚のアイビーの緑。日差しが白くまぶしい。何もかも色鮮やかだ。噴水を目の前にして、花壇の柵に諒介が腰掛けていたので、私は驚いて駆け寄った。
「諒介」
彼は吸った煙草の火を消して、携帯灰皿に吸殻を落とした。
「どうしてここに居るの?いつこっちに来たの?」
「うーん。難しい質問だ」
そう言って諒介は頼りなく笑った。休みを取ったのだろう、白いTシャツの上に青系のチェックのシャツを羽織った普段着姿だ。
「難しいって、何で」
「まいったな。判らないのは仕方ないけれど」
「そんな言い方で判るわけないでしょ?」
「そうだった。さて、ここはどこでしょう」
「どこって、うちの前の公園…」
噴水がサーッと大きな音を立てて噴き出した。水飛沫が額にかかった。私は目を細めて見回し、驚いた。諒介の後ろに見える筈の、私の住むマンションがない。
見たことのない景色だった。私の部屋の前の公園によく似ているが、少しずつ違う。まず、坂道の脇ではない。よって二階建て公園でもない。こちらの方が少し広いようだ。木々の緑に遮られてその向こうは見えなかった。
「…ここ、どこ」
「夢」
「え?」
「由加の夢にお邪魔してます」
どうも、と二人で頭を下げて、諒介の足元を見た。いつものコンバースだ。
「今日はお便所サンダルじゃないんだね」
「うん。気を遣ってみました」
この前、僕のイメージは所帯臭い、と言っていたけど、気にしていたんだろうか。
「…夢?」
「そう」と諒介は首を傾けつつ何度も頷いた。「…夢、だ」
「妙にディテールの細かい夢だなあ」
私は彼の隣に腰掛けた。彼は「そんなもんだ」と言った。
「そう、お邪魔って、どうやって」
「企業秘密だ。そう秘密だが、僕は、大阪で人の夢にお邪魔する研究をしている」
「えっ、そうだったの?」
「嘘」
「バカ野郎」
あんまり驚いたので、つい右手で殴ってしまった。諒介の頬で、拳がへちゃ、と潰れた。
「本気にするか、普通」
彼はクククと笑った。諒介が言うと、何でも本当に聞こえるから怖い。
「まいったな。いや、本当に…夢か、これは」
「え?」私は身体ごと横を向いて諒介を見た。彼は口をへの字にした。
「夢は往々にして自分でそれと判らないものだ」
「うん」
「正直言って、これが夢であると言い切る自信が僕にはない」
「何それ」
彼は頼りなく眉の下がった笑みで私を見た。「うん。その、」と眼鏡を外して目をこする。
「夢の中でまで、こうして言うべき事を考えているのはなさけない」
諒介は夢の中でまで相変わらずなのだった。私は、変なの、と答えながら笑った。
その後、手はどうだと訊ねられて、兄の事を話した。諒介は黙って頷きながら聞いていたが、「由加は」と眼鏡を外して目を伏せた。
「何を、どうやって決める?」
「え…」
「それは自分で考えなさい。でも、その前に市川さんに相談するといい」
そう言って彼は眉間を指先で軽くこすると眼鏡をかけ、微笑んだ。
「僕が一度大阪に戻って決めたように」
「…うん」
私は頷きながら、一年前をどんどん思い出していた。忘れてしまいそうで思い出すようにしていた時より、ずっと鮮明に時間が戻ってくるのが不思議だった。
「また落ちそうになってない?」とも訊かれ、「うん」と答えた時、ピリリリリリ、と携帯電話が鳴った。諒介はシャツの胸ポケットから携帯を取り出して「はい」と言い、それからしばらく黙っていた。
「…そうか。…いや、うん。…そう。よろしく」
ピッと電話を切る。「さて」と諒介は携帯をポケットにすとんと落として、フッと笑った。
「寝ている場合じゃなさそうだ。せーので目を覚まそう」
「え?」
「澤田の所に帰りなさい」
すっと諒介の大きな掌で目隠しされた。
耳元で声がした。
「またね」
ゆっくりと目を開けると川面がきらきらと光っていた。すぐ側に勝鬨橋が架かっている。隅田川テラスだ。木のベンチに腰掛けたまま、ぼんやりと隣を見た。誰も居ない。
「由加!」
澤田さんだ、と顔を上げると、彼は橋の上から私を見下ろしていた。こちらに向かって来る。土手の階段をぴょんぴょんと駆け降りて来た彼は、息を切らして「やっぱりここやったかァ」と言うと膝に手を突いて呼吸を整えた。
「さっき見た時はおらんかったな、どこ行ってた」
「……」
「…覚えとらんか?」
覚えているけど、それは夢だ。だから、やっぱり覚えていない。少なくとも、勝どきに向かって橋を渡ったのは覚えているが、どうやってこの築地側のテラスに戻ったのかは覚えていない。頷くしかなかった。
澤田さんはふうと大きな溜息を吐いて困ったような笑みを見せ、私の隣に腰掛けた。私はごめんと謝った。
「今日は一際おかしかったで、由加」
「ひときわ、って…」いつもおかしいって事か。
「俺と飯食う、て?知らんちゅうたら杉田さん、一言『出動』」
「出動?」
「俺は『泉レスキュー隊』とか『爆弾処理班』とか言われてんねん。何で『隊』とか『班』とかを一人でやらなアカンねん」
「だからごめん」
「仕事にならへんわ」
仕事、と聞いて私は「…もし…」と俯いた。「私が辞めたら…澤田さんの仕事の邪魔にもならないよね…。私…も、ちゃんと仕事が出来てる訳じゃないし…帰って来いってお兄ちゃんも言いに来て…」
澤田さんがゆっくりとこちらを向いた。真顔になっていた。
「それでか」
「やっぱり…辞めた方がいいの、かな…」
「由加はほんまにそれでええんか。今まで頑張って来たやんか」
「…仕事…したか、った、から」
仕事が出来なくなったら、私には何もなくなってしまう。それだけで、ずっと続けていた。私には他に力を蓄える術がないのだ。私は弱い。だからすぐ泣くんだ。涙がぽとぽとと落ちた。
「仕事が出来なきゃだめなの」
私が叫ぶと、澤田さんはいきなり私の頭を手でぐいと引き寄せた。一瞬、なぜ私の目の前にネクタイの結び目があるのか判らなかった。状況を理解したその時、いつか彼の言った縺れた思考回路の軋む音がしたみたいだった。
「放して」
動くと押さえつけられ、私の額が澤田さんの肩にごちごちとぶつかる。
「放したらまた居なくなるやろ」
『居なくなる』と言われて動けなくなった。
「仕事が出来んくらい何や。おまえはおるだけでええ」
カチッ
何?
「煎餅や肉まんにリボンかけたり、必死で箸握ったり、新人に本選んだり、そういうおまえがええねん。ここにおれや。…俺のとこ」
カチッ
「…放して」
カチッ
「由加」
「居なくならないから、放して」
カチッ
すっ、と澤田さんが離れた。頭がぐらぐらする…、動けないまま目だけで周囲を掴もうとする。何が何だかよく判らない。ひどく疲れているのだけ理解できた。
澤田さんの後ろを歩いてゆっくりと会社まで戻る間、いろんな言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
『おまえはおるだけでええ』
『由加はそれで充分』
『俺はそれが時々……』
『由加はそういう人』
…何?
『通り過ぎてから、時々振り返ってしまうような…』
何も考えられない。
気持ち悪い。
カチッ
澤田さんがエレベーターの『5』のボタンを押す。上へと運ばれる時の、足元の不安が不意に突き上げた。
ーーーまるで予感だーーー
エレベーターを降りた私は、そこに呆然と立ち尽くした。目の前に伸びる廊下、右手の衝立の向こう、休憩所に自販機の明かりと背の高い観葉植物の緑、左手の給湯室の入口は暗い。そこまで歩く事ができない。
「由加」
カチッ
歩き出す。入力室に戻ってチーフに謝った。チーフは怒っているようでも戸惑っているようでもあり、「あとで…」と言うと、その後をどう続けようか考えるように薄く開いていた唇をきゅっと結んで、ただ頷いた。
その夜、皆が退社して、休憩室に市川チーフと二人きりになった。実家に戻るよう言われているが私は仕事を続けたい、と言うと、チーフは「休職っていうのは?」と背中を丸めて膝に頬杖を突いた。
「休職…?」
「続けるか辞めるかの二者択一しかない訳じゃないのよ?」
「…あ、」と思わず言うとチーフは「やはり考えてなかったか」と笑った。
「それでしばらく実家に帰ればいいじゃん。それから…復帰後も入力じゃなきゃだめなの?休職中にパソコンの勉強をしておくとか。そしたら事務の方で復帰できる。そっちならスピード命の仕事じゃないしさ」
「…そうですね…思いつかなかった」
フフ、と彼女は笑って「本当は、人事に森ちゃんじゃなくて泉ちゃんを行かせようと思ったんだよ、私は」と言ったので、私は驚いた。
「だけど古田君と話し合って、怪我の原因が故意の可能性もある以上、犯人さんが居るかもしれない所に送る訳にはいかないでしょ、と言われたんで、入力に残したんだけどね。泉ちゃんにはかえってプレッシャーになっちゃってるところもあって、だから休職はいいと思うよ。それで手の回復次第でここか、森ちゃんの居る人事に行けばいい。もちろん、それは泉ちゃんに復帰の意志があるならね」
「あります、あります」
「アハハ。そんなリキ入れなくてもいいよ」
諒介の言った通りだ。チーフに相談して良かった。ぱーっと道が開けたみたいだった。
「ありがとうございます。頑張ってみます…」
「そうしてください」
それから話し合って、五月の連休を境に休職する事に決めた。今月いっぱいは新人さん達をちゃんと見て欲しい、とチーフは言った。古田さんから先週の休憩所での事は聞いているのだろうが、何も言われなかった。
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勝鬨橋から、また銀座まで歩いた。
銀座は好きだ。外灯の色の柔らかさや街並みが、時間の流れをゆるやかに感じさせる。その分だけ時間を手に入れられそうで、銀座に行くのが好きだ。
部屋に戻った私はプランタンの買い物袋をキッチンのテーブルの上に置いて中身を取り出した。ルームランプ。何と澤田さんからのプレゼントである。私が「暗いのが怖い」と言ったのを気に懸けてくれたらしかった。
私はそれをベッドの頭の上に置いてプラグを差した。スイッチを入れると、魚がぽっと光った。魚の形の面白い照明。私は部屋の明かりを消してみた。もうずっと、出かけている間にも点けていた明かりだった。
私は部屋の真ん中に膝を抱えて座り、魚のランプを眺めた。
暗い部屋を、光る水色の魚が今にも泳ぎだしそうだった。
気持ち良さそうだ。
私は魚と並んで泳ぐように、床に寝転がった。
逆さまに私を覗き込む魚の目。何かに似ている。前にもこんなような事があったと思う。何だっけ、と魚の目を見つめた。
目の前を何かがすうっと横切った。
桜の花びらだ。私は今度こそ本当に帰ってきた。富士の夢ばかり見るから、たまらなかったのだ。風に乗ってひらひら、ひらひらと、優しい花吹雪。公園の桜の木。黄緑色の葉がきれいだ。ここはどこだろう、見た事がない。新しく出来たのだろうか、と見回して驚いた。
富士が見えない。
深い青の夜空に金星がぴかぴかと光っていた。
何だ、東京だったんだ。公園に足を踏み入れる。周囲の家並みに見覚えはなかった。築地にこんな所があったろうか。
私から離れたブランコの向こう、更にフェンスの向こうの道を誰かが通る。
諒介?
私は呆然と諒介によく似た人が目の前を通り過ぎて行くのを見た。
黒縁眼鏡の横顔、癖のない髪、オレンジのTシャツの上に青いシャツを羽織って、ベージュのカラージーンズ、足元はコンバースかと思いきや、突っかけサンダルだった。サンダル以外は見覚えのある服装。
私は慌てて追いかけた。ひょろひょろと痩せた後ろ姿もそっくりだ。両手をポケットに引っかけて、左手首に白いビニールの買い物袋を下げていた。透けて見えるカレーパンに、私は口元を手で押さえてこっそり笑った。
諒介、と呼んでみたいが人違いかもしれない。私は黙ってその人のあとをついていった。静かな道を、その人は鼻歌混じりにのんびり歩いていた。かすかに声が聞こえてくる。そんなところも諒介に似ているな、と思うと目がじーんとしてきた。
う え を む ぅ い て、 あーる こう、 ぉ ぉ ぉう
な み だ が、 こ ぼ れ、 なーい よ ぉ ぉ に
おもい だ す はーる の ひ、 ひ とーり ぼ ぉっ ちの よ る
ふわふわとやわらかい歌声も似ていた。坂本九とは意外。諒介は洋楽しか聴かないと思っていた。いや、諒介じゃないかもしれないのだし、と思いながら歩いていると、私の足が何かを踏んづけた。足元を見ると靴を履いておらず、ソックスの足で石を踏んでいた。
これは夢なのかしら、この前もパジャマで家に帰ったから。
夢ならきっとあれは諒介だ。私は「諒介」と呼んだ。
諒介は振り返った。
「由加?」
私はにっこり笑ってみせた。
水色の光る魚が私と並んで泳いでいた。それがだんだんとはっきり見えて来て、またぼやけた。諒介、と声がぽつりと出た。おかしな夢だった。だるくて動く気になれない。右手で目をこすっていると電話のベルが鳴った。電話まで這って寝転がったまま左腕を伸ばして受話器を取る。「由加?」と夢の中のような声がした。
「諒介?」
「うん」
「珍しい」
「うん。その、…何となく」
「澤田さんから聞いたんでしょう」
「…そんなところだ」と答えて彼はフッと笑った。
やっぱり、そうだと思った。「もう大丈夫、気にしてないよ」と言うと、彼は少しの沈黙を置いて「そうか」と答えた。
「この前佐々木さんに、『和泉さんは元気してる?』って訊かれた」
「うん、元気。と、お伝えください」
「判った。この前の手紙に何にも書いてなかったから、『多分』って答えたの」
「そうか。…今度から何か書くように心掛けるよ」
私はフフ、と笑ってごろんと寝返りを打った。
「すごい、予知夢かも」
「何が」
「今、うたた寝してたら夢に諒介が出てきちゃったよ」
「僕が?」
「うん」
「…そうか、それは…感激のあまり泣いただろう」
泣いたけど、感激かどうかは疑問なのでそれについては答えない事にした。
「面白かったよ?諒介が歌って歩いてるの」
「…へえ?それは…美声だったろう」
「うん。でも歌は坂本九」
「坂本九、ちゃんですか…」
「そうです。『上を向いて歩こう』」
「そうか。…名曲だな」
しゅっ、と音がして諒介が煙草に火を点けたのが判った。
「…それで、その、…夢の僕は歌って歩いて、…タキシード着て仮面着けていた?」
「はあ?」
「…いや、その、…前に由加がタキシード仮面の夢がどうこうって言って…」
「そんな事言ったっけ」
「言いました」
きっぱりと言うので笑ってしまった。諒介にタキシードなんて似合わないと前置きして、夢の服装を説明した。
「ほら、土曜日にそんな格好で会社に来てた事あったでしょう」
「ああ、夢は割とそんなもんだな」
「でも靴はサンダルだったよ。突っかけ」
「…便所サンダルみたいな奴か」
「うん」
「由加は僕に対してそういうイメージを持っているのか」
「そうかも…」
「あとはどんなイメージなんだ。…その、たとえば、その夢の僕が何かしたとか、持っていたとか」
「買い物袋。カレーパン入ってたよ」
そう言って、それがおかしくて私はクククと笑った。
「…そうか。所帯臭いイメージなんだな」
「あはは」
「それで、その、…由加は夢の中で何をしたんだ」
「諒介のあとをついて歩いて、これは夢だと気がついて、」
「どうして気づいた?」
「…石を踏んづけて、靴を履いてなくて…」
夢だったから、その人は諒介だった。
私はその事に気がついて、そっと受話器の送話口を押さえた。諒介は何も言わず、私が続きを話すのを待っている。
長い沈黙だった。
「…諒介、って呼んだら、振り返ってびっくりしてたよ…」
「そうだろうな。あとをつけられたら驚くだろう」
「何だか…」私はふと思った事を口にした。
「この前会った時みたいに、いろいろ訊くんだね」
「…すまない」低い声だ。
「ううん」
私はのっそりと起きあがり、ベッドに腰掛けてコルクボードの諒介の手紙を見た。『ひとまず安心しました。』の字が目に飛び込む。この電話にせよ手紙にせよ、彼は心配してくれているのだ。会社を早退して私につきあってくれる澤田さんや、私を見かけるたびに声をかけてくる古田さんにも心配をかけている。
「謝るのはこっち…」
横に倒れて目をつぶった。不意に「あの、」と彼の声があらたまったので私は目をぱちっと開けた。「何だ何だ」
「この前の宿題だった、僕がなぜ時間が欲しいと思うのか、について…」
言った通り考えておいてくれたらしい。相変わらず律儀だ。
「結構、単純な理由で、その、…あ。うーん」
考えてなかったんだろうか。
「無理に言わなくてもいいよ」
「とまあ、こんなふうに」
「はあ?」
「何をどう言おうか、すぐには判らないんだ、僕は。くだらない事ならすぐに口にできるけど。会話はタイミングだからね」
諒介はくっくっと笑った。またひっかかった、と思っているんだろう。
「だからその、僕は、熟考しないと喋れないんだ」
「うん」
「そしてタイミングが合わない以上、話を終えるか、待ってもらうしかない」
「うん」
「以上」
「…え?」
「え?」
何と。たったそれだけの理由だったのか。だんだんおかしさがこみあげて、私はクククからフフフ、アハハと段階を踏んで笑った。
「…そんなに笑わないでくれ。こんな事にもひと月かかるんだ」
諒介は少し黙って、フッと笑うと「とにかく」と言った。
「由加が思うより、僕はずっと単純なんだ」
単純、と聞いて、そうだろうか、と思いながら訊ねた。
「この前、何を笑っていたの?」
「え?」
「スプラッタな想像のあと」
「……」
ごそごそ、と音がした。多分、眼鏡を外して額をこすっているのだろう。
じっと待つ。諒介は黙り込んでしまった。熟考しているのだろうか。目を閉じて待っているうちに眠くなってきた。電話代、どうなっちゃうんだろう、とぼんやりと思った。うとうとしてはハッとする、それを繰り返すうちに、遠くに声がした。
「…笑わずにいられなかったんだ…」
「何それ」
「…もしもし?」
「何で…」
「…由加?…おーい」
兄が突然訪ねて来たのは、その週末の事だった。
電話をもらった時にも驚いたが、バイクのヘルメットを抱えて現れたのには更に驚いた。兄、和宏は400ccのバイクで富士宮から東京までやって来たのだ。
「何考えてるのよ」
「何も」
そうだろうな、と思う。兄は「疲れた」と言っていきなりごろりと横になった。
「…今日はどうしたの」
「由加の手を見に来た」
「やだ」
兄はがばっと起き上がると「うりゃー、見せろー」と言って私の手首を掴んだ。「何すんのよ」と蹴飛ばすと蹴り返され、しばらく蹴り合った末にそれぞれ臑をさすった。子供の頃みたいだ、と思った。
「由加、何で帰って来ないの」
「……」
「お茶もろくにいれられないで」
と、兄は盆の上の湯呑みを見た。湯呑みの周りには左手でいれたお茶がこぼれて水溜まり、いやお茶溜まりになっている。そのお茶溜まりには、その前にこぼしたお茶の葉がぷかぷかと浮いていた。
「と、いう訳で、今日は帰って来いと言いに来た。俺は別にどうでもいいんだけど、母ちゃんが毎日うるさくってもう」
兄は起き上がって胡座をかき、湯呑みを手にした。ずっ、とお茶を飲み、「東京のお茶は不味いな」と呟いた。
「お母さんが送ってくれたお茶だよ」
「水が不味いの。それはともかくね、今の仕事にこだわる必要はないし、家でゆっくり集中して手を回復させればいいでしょ。東京に一人で居る事はないの。良くなってからまた出て来る事もできるでしょうが。由加は昔っから何も言わないで、一人でうじうじ悩むけどさ。こういう時の家族でしょ」
兄の口から強烈に気恥ずかしい言葉が発せられ、私達は互いに困惑した。兄は後退の始まった生え際をぽりぽりと掻いて、
「親に遠慮は要らないの。立っていれば使い、臑をかじって骨の髄までしゃぶり尽くせ」
「お兄ちゃん、鬼畜」
「最近、俺は抜け毛が激しい。由加が心配かけるからだ」
「抜け毛まで私のせいにしないでよ」
兄がポケットから煙草を取り出したので、私は灰皿を取って床に置いた。
兄の言いたい事は判る。けれど家に帰ったら逃げるようで、力を蓄えられないようで、橋が遠くなるようで、と考える。
東京と一緒。
私は涙が出そうになって、ゆっくり立ち上がってトイレに隠れた。トイレットペーパーで鼻をかんで戻ると、兄はベッドに腰掛けてコルクボードを見上げていた。
「由加…。何、この『給湯室に一人で行くな』って」
諒介の手紙だ。しまった、片づけておけばよかった、と思った時、兄はくるりとこちらを向いた。
「会社で何かあったの?給湯室って怪我した所でしょう?その手もそのせいなの?」
「…判らないの、本当に、ただの…」
「判らないって何それ。冗談じゃない。危ない目に遭って何で会社行くの」
「それは…私が失敗しちゃって」
「そうでもどうでも」ベッドから勢いよく立ち上がった兄はまた頭を掻いた。
「…母ちゃんが知ったらひっくり返る。とにかく、帰んなさい。もう許さないから」
「何を」
「バカ者」
兄はどかっと胡座をかいて、また煙草をぷかぷかと吸った。その後、外へ夕飯を食べに出た時も、兄は帰って来なさいと何度も繰り返し、懇々と私に話して聞かせたのだった。
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時間もあるから大きな書店へ行こうという事になって、澤田さんと一緒に有楽町線で池袋まで出た。朝、休憩室で話した時に「タイプの練習になって、しかも面白い本はないか」と訊ねると、「良さそやなと思うのはあるけど、実家に置いて来てん」と答えたので、その本を探しに来たのだ。
「何で本なんや」
「私がうちのワープロで新聞の記事を見ながらタイプの練習を…」
デパートの地下連絡通路を歩きながら言うと、澤田さんはゆっくりと振り向いた。
「そーか…」
「…うん」
右手を思うと辛い。
けれど澤田さんまで辛そうな顔をするから困ってしまった。
どこへ行くのだろう、と思ったら児童書のコーナーだった。色とりどりの絵本の棚の間で大柄な澤田さんが浮いて見える。背を丸めて本のタイトルを横に見てゆく。「これ」と一冊を抜き取ってページをぱらぱらとめくった。
「ほら、全部ひらがなや。文も短いし、タイプの練習にちょうどええわ」
「絵もきれいだね」
「由加はこういうの好きやろ」
「うん」
横から覗き込んで中を読み、それを受け取りながら首を傾げて表紙を見た。谷川俊太郎。
「…澤田さんて」
彼はぱっと両手で耳を塞いだ。
「何やってるの?」
「秘技、由加封じ」
「聞こえてんじゃん。澤田さんて」
「やめえ、て」
「こういうのも読むんだ」
「……」
はあ、と息を吐いて彼は耳から手を離した。私は開いたページの文字を目で辿った。『どんなよろこびのふかいうみにもーーー』
「澤田さんて、優しいんだね」
見ると秘技を出すのが遅れたのか、澤田さんは棚に寄り掛かってぐったりしていた。さすが読書家、と言うと「疲れるわ」と答えが返ってきた。澤田さんは自分で言うよりずっとシャイなのだ。
私の故郷は坂の街だ。街全体が富士の裾野の斜面にあるから、なだらかな坂がどこまでも続く。私は坂を下って行った。遠く、坂の下に小学校が見えた。校庭の桜の色は遠くからでもはっきりと判り、そこだけ空気に赤味が差したようだった。
私が通った頃と変わらない校舎は夜の静けさの中で眠っている。
見上げると黄色い月が私の頭上にあった。
そのまま後ろを振り返る。夜の富士。変わらない確かさ。強さ。
私は引き返して坂を上り始めた。富士は遠い。掴めそうに見えるのに。
私は歩調を速めてゆき、気が付くと走っていた。時折右手を前に伸ばす。
右手で富士を掴もうとした。
明かりの消えた民家の間の道を抜け、もう一度富士を掴もうとして足を止めた。
息が切れる。富士は大きすぎて、遠いけれど近くに見えるのだ。ここからではとてもつかまえる事はできない。もう帰ろう、と思った。目を伏せると涙がこぼれた。
頬を拭って目を開けると、私はベッドの中に居て、涙が横に流れて耳を濡らしていた。頭を動かして壁のコルクボードを見上げる。ポストカードの富士山が私を見下ろしていた。
帰りたい。
富士の夢ばかり見る。
私は布団を頭まで被った。知らず、「お母さん」と呟いていた。
いつも煮物が少し焦げている母。洗濯が一番好きな母。
お風呂で演歌を歌うのが好きで、だけど音痴の父。
私が帰るといつも憎まれ口を叩いて、だけど私に構わずにいられない兄。
帰りたい。
新人さん達の研修指導が始まってから二週目に入っていた。山口さんは先週末で研修を既に終えて、簡単な仕事を始めていた。浜崎さんはテープを聞きながらのストローク練習を経て、今は基礎コードの学習に入っている。来週には仕事に入れるだろう。そこで私もようやく元の仕事に戻れる。
夜毎、富士の夢を見ては帰りたいと思う私がどうにかインストラクターを続けていたのは、新人二人が日に日に上達してゆくのが張り合いになったのと、諒介との約束があったからだった。
『今、僕は力を蓄えているところなんだ。由加もそうしてくれないか』
私はベッドから起き出して、キッチンのテーブルに向かうとワープロのキーを叩いた。
休憩時間にトイレから出てハンカチで手を拭き拭き廊下を歩いていると、休憩所から古田さんが「泉ちゃーん、ヘルプミー」と手招きした。何だろう、と近寄って向かいの椅子に腰掛けた。古田さんの隣で煙草を吸っていた澤田さんが、まだ残りも長いのに火を消した吸殻を灰皿に落とした。古田さんの前には雑誌が広げられていた。地域情報誌の行楽ガイドのページだ。
「どこか出かけるの?もうすぐ連休だものね」
「うん。連休明けにね、大阪に出張で家を空けるからねえ。家庭サービスしとかないとね」
「お父さんも大変だ」
「勇クンも出張連れてっちゃおうかしら」
「無理やろ」
勇君は古田さんの二人目の子供で、まだ一歳にもなっていないと聞いている。
「それで?どこ行こうか迷ってるんでしょ」
「僕はそういうの、さっぱり判らないの。家に居るのが一番好きだから。澤田の意見は参考にならないし」
「温泉がええって。露天で、家族水いらず」
「水のない温泉は空しいねえフフフ」
「アホ」
ふうん、と私は雑誌を覗き込んだ。緑の多い、広い公園なら勇君も芝生の上でハイハイができるよ、などと話していると、二人の向こうに誰かやって来た。「いずみさんって」と聞こえたので、私は背を丸めたまま顔だけ上げた。がっしりした澤田さんと、ふっくらした古田さんにブロックされて、ちりめんじゃこの私からは自販機のコーヒーの写真の上半分と観葉植物の葉が見えるばかりだった。
「何であの人がインストラクターなの?」
と聞こえて私は動けなくなった。どこかから、それを言っちゃあおしまいよ、と寅さんの声がした。私は寅さんのシリーズも好きで殆ど観ている。
それは私も自覚しているのよ、山口さん、と心の中で返事をした。古田さんの頭の向こうに煙草の煙が上るのが見えた。
「びっくりしちゃった。最初はさ、教えるんでゆっくり打ってるのかと思ったんだけど、本当に遅いんだよね。何でこんな人が入力の仕事やってるのかと思った」
「…手が不自由みたいだよ?」と浜崎さんの声。「ペンも使いやすいようにテープ巻いて…」
「そう、すごい字」
私は肩を竦めて身を小さくした。顔が熱い。隠れてしまいたい、と思った。向かいの二人がそれを察したのか妙に肩をくっつけている。上目遣いに二人を見ると、古田さんはいつものニコニコ顔に困惑を混ぜた表情だった。澤田さんは眉間に皺を寄せて唇を尖らせている。頬杖を突き、空いた手で雑誌のページの端を弄んでいた。
「だから不思議なんじゃない。なんで手の動かない人が入力やってる訳?はっきり言って浜崎の方が、もう打つの速いよ。訊いたらさ、怪我したって?前は出来たかもしんないけどさ、今はもう出来ないんだから辞めた方がいいんじゃないの?利き手使えないんじゃ他の仕事もできないだろうけどさ」
突然、澤田さんが雑誌をいじっていた左手を私の右手の上に置いてぎゅっと握った。ゴツゴツした手に驚いた。古田さんは細い目で私を見ると、傍らの新聞を手に取ってバサバサと大きく広げた。二人の姿が見えなくなった。
「仕事が好きなんじゃないかな」
「出来なきゃ話になんないじゃん」
テーブルの下からガタンと椅子の脚が鳴る音がして、古田さんが小声で「澤田」と言った。澤田さんの小さい溜息。目の前の新聞がぼやけた。俯くと、涙が澤田さんの手の甲に落ちてしまった。あとはもう、二人の声もよく聞こえなかった。仕事が出来ない、その言葉が頭をぐるぐると回った。
「今夜のレッズの試合の録画を頼まないと。前半を見逃してしまうね」
と古田さんは新聞をバサバサと言わせた。新聞が目の前にぐーっと近づいて、澤田さんが「…今日はどことや」と訊き、古田さんが「セレッソ」と答えた。もう何も見たくない。私はテーブルに突っ伏して目をぎゅっとつぶった。
バサバサ、と頭の上で音がして、新聞を片づけたのが判った。
「ちょっと待っててね」
古田さんが立ち上がって休憩所を出て行く音。しばらくして戻って来て、テーブルの上に何かを置いた。傍らの自販機の方からドン、と音がした。
「俺は想像力に欠けたアホはよう好かん」
「僕は物に八つ当たりをする奴は愚かだと思うよ」
「へえ、愚かモンです」
「それじゃあね」
「すまんな」
澤田さんが謝っているので、私は顔を上げた。テーブルの上にあったのは私のジャケットとバッグ、澤田さんの鞄だった。
「アホらし、今日はもう帰ろう」
そう言って澤田さんはやっと手を放した。
「市川さんには古田の方から話したやろ、心配要らんから」
私は呆然としたまま立ち上がり、ジャケットを着た。澤田さんは鞄とバッグの二つを持って、私が歩き出すのを待った。一階まで降りて、並んで歩いて外に出る。澤田さんは「どこ行こか、時間はたっぷりあんな」と言った。
時間はたっぷり。
『時間がない』
「どっちなの?」
『どっちだ?』
「何が」
『今、探しているところだ』
『私も』
「判らない」
『まだ、判らない』
『いつか、』
「…諒介が呼んでる…」
「…そーか。ほな、奴のとこ行こう」
澤田さんは頷いて、私の右手を握ると引っ張って歩き出した。駅とは逆の方向だ。晴海通りの角を曲がった。
勝鬨橋だ。
ゆっくり渡り始めた。
「和泉が待ってる」
「うん」
「和泉も渡ってくる」
「うん」
「俺らと約束したからな」
「…うん」
私は涙をぼたぼたとこぼしながら正面を見た。私の手を引く澤田さんの背中がぼやけて見える。橋の中程で彼は立ち止まった。
「言うたれ、いつもの」
「…何」
「バカ野郎ての」
橋の欄干に凭れて隅田川に向かった。
「バカ野郎」
「…由加も和泉も、何か焦っとるみたいやけど…時間は作れるんやで?こやってズルして早退けしたりな?」
澤田さんはフッと笑って言った。
「由加、これもメモしとけ。こう、」と左の掌に右手の指で書く。
「そんで、今度奴に教えたれ」
「…今度会うのは澤田さんでしょ」
「うん。古田と一緒に大阪行く。…もう、戻ったな」
そう言って、澤田さんは頷いて川を見た。
「この前の橋の行ったり来たりな、最初、何やと思ったけど、思い出してな。そーか、東京と大阪に橋架かっとんねん、俺が言ったんや。橋架けて待ってるてな。せやから由加は橋にこだわっとんのやな、て判って。和泉もそれ判ってて言うたんやな。そしたらなあ」
彼は笑い顔をこちらに向けた。
「渡って行ったり来たりだけやないな、て思うてな。一緒に渡んねん。和泉は一人で渡ろうとしとるみたいやけどな。渡った先を見とるからやろな。…うん、俺も見とるけどな。でもまだその先があんねん。東京と一緒に、てそら二十三区担いで渡れへんけどな」
私達の周りに鳩が集まってきた。澤田さんは鳩を見遣って、またこちらを向いた。
「東京と一緒に、て由加の言うんはそーゆーこっちゃないんか?渡った先の誰かと、今度は一緒に橋渡るねん。橋の架かったもん同士、もっと大きい橋」
私は涙を拭うのも忘れて聞いていた。拭っても次々に涙は出ていたけれど。
「…澤田さんて」
澤田さんは、ぱっ、と耳を塞いだ。
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部屋の明かりを消さずに眠る。
以前は明かりを消して、映画のビデオを観るのが好きだった。映画館のようにポップコーンとコーラを用意したり、床に寝転がって観たり。けれど今は蛍光灯のオレンジの豆電球だけでは怖い程暗く感じられる。
一旦ベッドに入った私は思い立って起き出し、バッグの中のファイルから諒介の手紙を取り出した。簡単な挨拶からいきなり研修指導の話題に入る。小さい文字で便箋に二枚。ぱらりとめくって三枚目。
ーーーあれから周囲に変化が起きたりしていないようで、ひとまず安心しました。あまり思い詰めないよう、なるべく気楽に構えて過ごすこと。
インストラクターの件も、市川さんはあれでいて(失敬)慎重な人ですから、君に任せる事については充分考慮の上だと思います。余計な事は考えないこと。
それから、念のために、給湯室へは決して一人で行かないこと。
必ず入力室の誰かと一緒に行くように。ーーー
ごろりと寝転がって何度も読み返した。
相変わらずだ、と苦笑した。諒介自身の事は書いてない。新しい仕事の事や近況などは一言も触れていなかった。昨年の残暑見舞いがやけに貴重なものに感じられる。
私は起き上がり、便箋二枚をファイルに戻して、ベッドの上によじ登った。枕の上、壁のコルクボードを見る。
諒介の残暑見舞い。
昨年暮れに佐々木さんから貰ったロンドンのタワーブリッジのカード。
正月明けに届いた、旅先からのカードは里美から。プーケットの海。
昨年夏に帰省した時に買った富士山の写真のカード。
私は三枚目の便箋をコルクボードにピンで留めて、布団に鼻までもぐって目を閉じた。
空は深く澄んだ青い色をしていた。星が見えている。
桜の花の淡い色が空に映えている。暖かな風がふわっと吹くと、花びらがわずかに散ってひらひらと舞った。
富士山が見える。
濃紺の影。白い冠雪にも薄青い影を纏っている。
それが何かに似ていると考えた。
諒介だと思い至った。先月東京に来た時の、紺のコートと白いセーターだ。
私の目の前には畑が広がっていて、そこかしこの民家に見覚えがあると思った。
見回すと向こうに医療品会社の工場が見え、すると私の後ろには、と振り返った。
私の家があった。そうだ、私は帰ってきたのだ。
古い木戸を開けて門をくぐった。飛び石を踏んでゆっくり歩く。庭を覗くと、父の盆栽はまた増えたらしい。ふふ、と笑った。母の好きなハーブの鉢にも白い花が咲いている。玄関脇に兄のバイクがあった。今日は早く帰ったのかな、おかしいな、と思った。空を見上げて月を探すが、目に付くのは柿の木の枝ばかりだ。玄関の扉を開けようとすると鍵が掛かっていた。私はポケットを探ろうとして、ポケットがないのに気が付いた。
パジャマを着ている。素足だ。
「あれ?これって夢なの?」
思わず声に出した。
すーっと目の前が真っ白になった。
ぼやけて見えていた景色がだんだんとはっきりしてきた。私の部屋の鏡台やテレビ。私はベッドの中に居た。だるい、と思う毎朝の儀式を今日も果たしてもう一度目を閉じた。
せっかく家に帰ったのに。せっかく富士に逢えたのに。
もう一回、夢の続き。
鼻がツーンとして、目がじんじんした。目を開けると、涙が横に流れた。
いい夢。変な夢。いい夢。変な夢。
私は頭の中で交互に繰り返した。どちらなのか判らなかった。
きっと諒介の手紙が紺のコートの富士山でインストラクターが恥ずかしくて家に帰りたかったんだ。
思考がぐちゃぐちゃだ。
私はむくっと起き出して、まっすぐバスルームに向かった。ぼんやりと歯を磨きながらシャワーの栓を捻った。
ザーッ
パジャマを脱ぐのを忘れていた。頭からお湯を被って、ストライプのパジャマが体にひっついた。
前にもこんな事があったような気がする。何だっけ、何が、
『何があった』
鋭い声だった。
私は目を見開いた。息を呑んで、くわえていた歯ブラシがぽろっと落ちた。「ああ、」声と一緒に口から歯磨粉の泡を洩らす。それをシャワーの湯が洗い流した。私は体を壁にぶつけて、確かなものを探して座り込んだ。
ザーッ
私は湯の流れる床を這ってバスルームを飛び出した。キッチンの床に私の這ったあとが濡れて光る。どこか掴まる所、溶けない所、
どこ、
椅子の脚を掴むとガタッと揺れた。
どこ、
『よし』
床と壁。
私は玄関の三和土の前まで這ってそこの床を確かめ、横の壁を左の掌でバンと叩いた。
「…よし」
『大丈夫だ』
「大丈夫だ」
私は壁にひっついた。右手の甲と右頬をくっつけた。「ううううっ」という自分の泣き声に驚いた。涙がぼろぼろと溢れて、私は何で泣いているのだろう、と思った。
『何?』
紺のコートの袖が富士山だ。
『ここからは遠い』
ここは東京だ。
『帰る所があるのはいい』
帰りたい。静岡に帰りたい。ここは怖い。
涙が止まらなかった。
『由加もメモしておけ』
早めに出勤した。退職する松岡さんが「よかったら使って」と譲ってくれたノートには、彼女がそれまでに仕事を教えてきて気づいた事などが数年分も記録されていて、どうしたら分かり易く教えられるかとか、新人さんにコピーして渡すのに良さそうなタイプミス表の原本などがあった。
『帰る所があるのはいい』
同じメモを掌に、諒介は大阪で働いている。
私も仕事を頑張ろうと思った。
コピーを取りながら、またしても泣きそうな目をこすっていると「おはようございます」と浜崎さんが入ってきた。私は「おはようございます」と笑顔を返した。
「浜崎さん、本読むの好き?」
「本ですか?少し…ですけど…何ですか?」
「どんなの好きかなあ」
「軽くて読みやすいの」
「あ、私も」
ふふ、と一緒に笑ったところで佐々木さんが入ってきて「うわお」と万歳した。
「朝から激しいね、佐々木さん」
「だって低血圧の泉ちゃんがもう来てんだもん。当番の私より早く」と言って、私がコピー機の電源を切るのを見た。「気合い入ってますな、師匠」
私はうんと頷いて、自分のデスクのペン皿を取った。太巻きペンの数が増えたので、ペン立てからペン皿に替えた。当番が掃除をするのだからデスクで作業すると邪魔になる。私は入力室を出て休憩所へ行く事にした。
休憩所で塗り絵をする。通りかかった市川チーフに「おはようございます」と声を掛けるとこちらへやって来て塗り絵を見て驚いた。「そういう事は就業時間にやっていいんだよ」と笑う。
「朝イチで渡したかったから…。そうだったのか、チッ」
「アハハ、泉ちゃんはクソ真面目だからねえ。ま、私が見込んだだけの事はあるわな。頑張ってね」
キーボードの絵に色を塗る。キーの指位置。人差し指がピンク色、中指が水色、薬指が黄色で小指が黄緑色。親指は赤。これは浜崎さん用。慎重にゆっくり塗った。ずっと塗っていたら手が震えてきた。誰かが休憩所の前を通り過ぎ、バックして戻って「うおお」と言った。
「俺は今、奇跡を見とるんか。朝っぱらから由加が仕事を」
「悪かったわね」
皆、私をそんな目で見ていたのか。朝は大抵ぼーっとしているけど。
澤田さんは綿コートに鞄を抱えた出社スタイルのまま私の向かいの椅子に腰掛けた。私は色を塗り終えて、次の紙を目の前に寄せた。山口さんと浜崎さんの二人に一枚ずつ渡す基礎コード表。赤ペンで印をつけていく。
「今朝ねえ」
「うん」
「実家に帰る夢見たんだ。富士山に桜が映えてきれいだった…」
「そーか。ええ夢見たんやな」
「うん」
目をこすると「また泣く」と笑われた。「内緒にしてね」と言うと澤田さんは微笑んで頷いた。
諒介には、と言わなかったが、多分判っただろう。
ミーティングの後で山口さんと浜崎さんの二人に私のデスクの所まで来てもらい、今日やってもらう事を説明した。
「…山口さんのやった分は後で私がチェックします。浜崎さんは今日もテープに合わせて打って、二人とも終わったら教えてくださいね。浜崎さんは昨日と同じで、夕方にどこまで進んだか見せてもらいますから」
よろしくお願いします、と三人で頭を下げた。二人が席に戻ると、佐々木さんが手にしたコード表の陰から小声で「師匠、様になってますねえ」と言った。
「松岡さんと諒介のおかげ」
「へえ。…和泉さん、元気してる?」
「…多分」
多分って何じゃそりゃ、とクスクス笑いで佐々木さんはまた手を動かし始めた。
あの手紙ではどうしているか判らない。判るのは私が心配をかけているという事だけだ。私は、二月に彼が東京へ来た折に見せたいつもと違う様子が気になった。そのすぐ後にはもういつもの調子で「まいったな」と言っていたけれど。
私は佐々木さんとは反対の隣、少し離れたデスクの浜崎さんの手元を見た。
パシャ、パシャ、パシャ、パシャ、パシャ、パシャ
両手がキーの上に浮く。テープの声の合間の待機中。彼女の顔をちらりと見ると真剣そのものだ。可愛いな、と思う。その向こうの山口さんの様子を見に立ち上がった。
タタタタタ、とかなり慣れた手つきだ。コードさえ覚えればすぐに仕事に入れるだろう。山口さんの顔もちらりと見る。美人の真顔は鋭い感じ。呑み込みが早いのは真面目だからだろう、と思った。私はそのまま通り過ぎ、バッチを取って自分の席に戻って仕事を始めた。
時計の針が四時半を差す。私はまず山口さんに声を掛けて、デスクの横に立って背を丸めた。松岡さんのノートからコピーした表に書き込んだ結果を見せる。
「これと、これ。覚え違いね。あとはミスがなかったので、この二つだけ覚えてください。覚え間違えると手に癖がついちゃうから…」
「はい」
「それから、明日から仕事、まだみんなとは違う仕事だけど、やってみましょう」
そう言うと、山口さんはニコッとして「はい」と頷いた。
次に浜崎さんの席にまわって彼女の横に自分の椅子を引き寄せた。「それじゃ、この絵、隠しちゃいます」とキーボードの絵を取って膝の上に伏せた。
「はい」
「半分貸してね」と私と浜崎さんとでイヤホンを分け合い、テープの音を聞きながら彼女にタイプしてもらった。私はモニタを見ている。
「はい、お疲れさまでした。浜崎さん、休憩の時にもやってたね」
私は彼女が昼食の後にもデスクに着いていたのを思い出して言った。
「熱心だから覚えるの早いけど、休憩はちゃんととってください。目とか背中とか、慣れないとすぐまいっちゃうよ」
「はい」
私はキーボードの絵を彼女の原稿台に戻した。五時のブザーが鳴る。いいタイミングだ。新人の二人がマシンの電源を落とし、デスクの上を片づけて休憩室のロッカーに向かう。お先に失礼します、と言うのへ、皆でお疲れさまでしたと答えた。
「ああ、緊張した」
私が自分のデスクに突っ伏すと佐々木さんが「お見事」と拍手した。
「泉ちゃんは結構外面が頑丈だから」
「上がり性ゆえの無表情仮面」
皆、言いたい放題だ。そういえば澤田さんにも「厚手の猫をかぶって」と言われた。
帰る支度をして開発部を覗く。通路と部を隔てる低いロッカーに両腕を載せて寄り掛かる。古田さんが「何してんの」と言うので「澤田さん待ってる」と答えた。澤田さんが奥の席から「もうすぐやから待っとれ」とこちらも見ずに言った。
「おやおや、どこへ行くのかな?」
「本屋」
「へえ?何で」
「新人さんの入力の練習用のテキストにいい本を探すの。澤田さんは詳しいから」
「ふうん」と言って古田さんは振り返り、ニッコリ笑った。目が一本線になる。
「古田さんは大阪の本社に居た事ある?」
「ないよ」
「…そう」
「ごめんねえ、僕は和泉の過去を知らなくてフフフ」
私は驚いて「何で判っちゃうの」と訊いた。
「泉ちゃんが本社の話を持ち出すなんてそれしか考えられないもん。…入社した時の研修で僕が大阪に行った時だから八年?九年?まあ、そのくらい前に一緒に研修受けてはいるけれど、人数も居たし、その時は和泉を知らなかったよ。澤田も。…で、その数年後に」
フーンと古田さんは椅子の背凭れに寄り掛かって伸びをした。
「…その数年後に?」
「フフフ、一度、ほら今回みたいに合同のプロジェクトがあった訳ですよ。それで僕は和泉と一緒に仕事をしたんだよ。泉ちゃんも知ってる通り、奴は照れ屋さんですから、仕事以外の事は喋らなかったなあ」
「…それで?」
「だから、他に知らないの。ごめんねえ」
「うん。別にいいけど…」
「何かあったのかしら。訊いてもいい?」
「だめ」
「うーん、手強いな。澤田も苦労するねえ」
すみません、と思わず頭を下げてしまう。
その判らなさに、私自身どうしようもないのだ。自分の周りに不思議な事が起こる特異体質。知られたくない、気持ちの悪い物がまとわりついている自分。諒介は恐れずに居てくれるけど、他の人は判らない。
「終わったァ」と澤田さんが嬉し泣きの真似をした。「あーあ、とっとと帰ろ」と立ち上がって私にニコッと笑った。
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ラーメンがこんなに悲しい食べ物だとは知らなかった。
私はネギラーメンをじっと見た。麺は冷めたスープを吸って伸びきっている。食べても食べても減らないラーメン。いや、先刻から私はまだ麺を数本しか口に入れていないのだ。私は箸を持つ手を震わせた。麺を箸ですくい上げようとする。箸の先が開かない。むっ、と力を入れると親指が箸の片割れーー割り箸だけにーーを丼の上にぽろりと落とした。
左手で落ちた箸を拾い、右手に持たせてやる。
この歳にして私はただ今、箸の特訓中である。
二ヶ月程前に右手を怪我して以来、少々不自由になっているのだ。
「由加、眉間が…」
「黙っててよ」
「ゴルゴになっとるで」
「えっ」
私は有名な殺し屋の太い眉とその間の皺を思い出し、左手でぱっと眉間を押さえた。「やだ…」恥ずかしくなって俯いた。目の前にすっと伸びた手が、持っていた箸で麺をがばっと掴むと、向こうの丼に移し入れた。既にスープも飲み干した空の丼にべちゃべちゃになった麺を半分程移して、澤田さんはそれをずるずるっと食べ始めた。
「不味いな」
「……」
見るからに不味そうだ。しかしテーブルに運ばれて来た時は湯気が上がり、香ばしいネギとスープの匂いがとても美味しそうなラーメンだったのだ。箸と格闘するうちに刻一刻と姿を変えていったラーメンは、まるで私のようだと思った。
伸びきって不味いラーメン。
力なくそれを見つめる私。
食べる事さえ上手くできないのだ。
悲しい気持ちで見つめていたなるとが、澤田さんの箸にひょいとつまみ上げられ、彼の口の中に消えていった。
会社の帰りに寄ったラーメン屋。最近私は、夕飯には必ず箸を使うようにしている。昼間、会社で採る昼食はいつもおにぎりやパンなどで済ませる。皆の前で箸を使うのが嫌なのだ。その会社の人で澤田さんは唯一、私のこの右手の状況を安心して見せられる人だ。怪我をした場に居合わせたからだろう。
彼は私の右手について何も言わない。下手な慰めより嬉しいと思う。でもそれは恥ずかしいから言わない。
彼が自分の丼に伸びたラーメンを追加して、見ると私の丼の底に一口分くらいの麺とネギが残るばかりになっていた。私は左手で丼を傾け、箸で麺を寄せてどうにかすくい上げるとそれをつるるっと食べた。
「…ごちそうさまでした」
「……」
澤田さんは何も言わず、口をぎゅっと結んで、掌を胃の辺りに当てた。そりゃあ、食べ過ぎというか、麺が胃に入る前に既に膨れているのだから無理もない。ふと彼が左手を動かした。その仕草につられて私も自分の腕時計を見ると、ラーメンが運ばれてから一時間も経っていた。
私が肩を落とすと澤田さんは「行こか」と言って立ち上がった。
店を出てゆるゆると歩き出す。晴海通り。築地駅の方への角は曲がらずに、話しながら銀座の方へ向かう。意味はない。ただ話をするために歩いている。
「握力は相変わらず…。指も握れる程には曲がらないし…」
「ふむ」
「でもタイプは少し速くなったんだよ。ほら」
私は両手を前に伸ばしてかざし、指を動かしてみせた。私の仕事は情報処理の入力オペレーターだ。
さ、わ、だ、と、も、ひ、こ。
と澤田さんの名前のキーを宙に叩く。『も』で少し指がもたついた。ホームポジションより下のキーを叩く時には腕を引くようにするからだ。
澤田さんは「そーか」と頷きながら聞いている。
毎年春に行われる我が社の展示会も終わり、まもなく東京の桜も開こうという季節だ。私達は軽い綿のコートで夜の街明かりの中をゆっくり歩いた。
「異動になるかと思ったんだけど…」
「何でや」
この右手のためにオペレーターとしては働けないと思ったから。
「松岡さんのご主人が転勤するんだって。だから松岡さんは今月で退職しちゃうの」
「ほーお。聞いとらんかった。ほな送別会するんか」
「うん。月末。それに森さんが四月から人事に行く事になって」
「由加は森さんと仲ええからな」
「うん。でも二階だし」
互いに横目で見遣って、ふふ、と笑った。
「早いな、由加も一年おるんやな」
「うん。奇跡の長続き」
「ははは」
人材派遣であちこちを転々としてきた私がこの会社に一年ーー正社員になって半年ーーも居るのは、心地好い雰囲気を作り出す人々が居るからだ。優しく、お祭り好きな楽しい人達ばかりだ。
「それで、四月には入力室にも新人さんが入るんだよ。二人来るって」
「由加も先輩やんか」
「うん。年齢だけなら大が付く先輩なんだけど」と言うと澤田さんは「アハハ、歳だけはなァ、外見はチビッコやけどな」と言った。むう、と横目で睨んだ。背の高い澤田さんと並ぶと自分が縮んだ気がする。
「今まで一番後輩だったからね、何か嬉しい」
「単純やなあ」
「うん。それはいいんだけど、困る事もあって」
何やねん、と彼は顔をこちらに向けた。
それは今朝のミーティングを終えて、席に戻ろうとした時の事だった。
入力室のチーフ、市川さんが「泉ちゃーん、ちょっとー」と歌うように節を付けて私を呼んだ。チーフは手招きして、自分の大きなデスクに二つ備えた椅子の一つに掛けるよう私に勧めた。
「四月から新人さんが来るんだけどもさ、泉ちゃん、インストラクターやってくれる?」
「えっ?」
突然の事で驚いた。インストラクターって、何をするんだろう。
「去年、和泉君がやってた事だよ。システムの概要を説明するの。後は松ちゃんが仕事の流れを教えてくれたっしょ」
松ちゃん、とは松岡さんの事だ。
「二人のうち一人は学校でパソコンいじってて、それなりに下地の整った子だからそこまででいいの。泉ちゃんの時と同じだね。もう一人がさ、キーボードに触った事もない子なんだわ。その子にタイプの指導までやって欲しいんだわァ」
「そんな、私」
と、膝の上の右手を左手でぎゅっと掴んだ。
「できません。あ、あの…」
「何言ってんの、泉ちゃんだからできるんじゃん」
「は?」
チーフはニッと笑って、ずれそうな銀縁眼鏡をチョイと直した。
「キャリアもある。サブチーフ並みの実力も持ってる。適任だよん?」
「そんな実力なんて、今は…」
その後を言い淀む。先月、入力室を視察した他社の人に「新人」と言われた事を思い出した。新人が新人を指導するなんて無理な話だ。
「今はね。でもそれは右手だけの話。そこんとこ理解しなさいね。ハイ決まり」
「え、え、」
「これ読んでおいて」とファイルを一冊差し出され、「ほい戻った戻ったー」と追い払われてしまった。
「…チーフは多分、リハビリの一環というか、その…私…」
私のために、という言葉が出なかった。澤田さんは「ま、市川さんの事やから、そんなもんやろな」と軽く頷いた。
「どうしよう。自信ないよ」
「市川さんは、由加に出来そうもない事は頼まへんよ。それに新人さんかて早いとこ使えるようになってもらわな困る訳やろ?確実の線を狙うんやったら大河内さん辺りに頼みゃあええやんか、由加に頼むのは同じ事が由加にも出来るからや」
「そう、かな」
「そおっ」
澤田さんが妙に力を入れてそうと答えるのでおかしかった。
「さっきの箸みたいに粘ってみい」
「…うん」
「由加、やっと自分から手の話するようになったな」
ニコッとして言う澤田さんを横目で見上げた。本当にこの人にはかなわないのだ。
開発部の澤田智彦といえば泣く子も笑う関西人、社内きってのフェミニスト、歩く気配りオフィスのドラえもん、そして私、入力室の泉由加のお守り役。以上は全て私が言ったのではなく、社内で囁かれる彼のキャッチコピーである。
澤田さんは、私がこの会社に派遣されてまもなく知り合った友人、和泉諒介の親友でもあって、その縁で私とも親しくしている。諒介はというと昨年の四月に大阪へ行ってしまった。私の特異体質ーー右手の事ではないーーを知る唯一の人物で、離れていても私を気に懸けてくれる有り難い友人だが、それが周囲に誤解を生んでいる。私達は社内公認、本人非公認のカップルなのだ。そして澤田さんは『泉ちゃんの虫除け』とまで言われており、三人の友情はなかなか複雑な形に見える。
けれど私達が解り合っていればそれでいいのだ。
私は頷いて「えへへ」と笑った。
帰宅して入浴し、パジャマ姿で床にごろごろ転がって、借りてきた研修指導のファイルを開いた。システムの概要。私が昨年、諒介に教えてもらった時はどうだったかと思い出しながら活字を追っていると、行間やページの隅に諒介が書き込んだ青いインクの文字があった。ちまちました、癖のある字ですぐ判る。私は、入力室のインストラクターを今度は私がやる事になったと報告しておこう、と思った。電話でも済む事だが、私は手紙を書く事にした。これもリハビリになるからだ。
テープを巻いて太くしたペンを握ってゆっくり書く。無意味に字が大きい。ところどころ字が震えている。なんて格好悪い手紙だろう、と書き終えてがっかりした。しかし書き直す気力もない。せめて外側くらいは見栄え良くしよう、と宛名はワープロで打って、畳んだ便箋を封筒に入れた。
桜も五分咲き、四月の始まりに入力室は新入社員二人を迎えた。
一人は山口さんといってスラリと背が高くスタイルも良い、モデルみたいな女の子だ。 もう一人は浜崎さん、やっぱり背が高くてスタイルも良くて、スポーツ選手みたいな女の子。モデルとスポーツ選手、どう違うのかというと、ただ雰囲気が違うだけである。
「インストラクターの泉です。よろしくお願いします」と頭を下げた後、頭を上げた。見上げてしまったのだ。最近の子は発育がいい。この身長差、どちらが新人だか判らない。
三人で入力室の奥にある休憩室の椅子に座った。テーブルに資料を配る。「それでは…」の言葉と一緒に口から心臓が飛び出しそうだった。震える手でファイルを開いた。
私はそこに挟んだ諒介の手紙を見た。
指導の要領が細かに書かれている。先輩の心遣い。友達の優しさ。思わず微笑んだ。
一通りの説明を終えて、私は心の中で自分に拍手喝采した。
「…山口さんには、基本コードを覚える研修に入ってもらいます。判らない事があったら、いつでも私に声を掛けてください。浜崎さんはタイプの練習から…」
自分の事を言っているみたいだった。
「それじゃ、マシン使って説明します」
立ち上がって私の席へ行き、基本操作や仕事の流れを説明する。今は居ない松岡さんが教えてくれた事だ。「こうやって」とゆっくりキーを叩く私の手元を二人が覗き込む時、顔から火が出そうだ、と思った。
「心臓飛び出したり火ィ吹いたり、マジシャンかおまえは」
午後の休憩時間に澤田さんと五階の廊下の中程にある休憩所でお茶を飲んで、研修指導の時の事を話すと彼はそう言った。私は長椅子に果ててしまった。
「だって緊張したんだもの」
「その上がり性、何とかせえ」
マシンの前で説明を終え、ほっと安心した途端に「それでは席に着いてください」と言うべきところを「それでは位置に着いてください」と言ってしまい、隣の席の佐々木さんに「用意ドン」とすかさず突っ込まれてしまったのだ。新人さん二人は驚いて三秒程固まっていたが、皆が手を止めて大笑いすると一緒になってお腹を抱えて笑っていた。
「もうだめ。恥ずかしくて死にそう」
「まだ初日やんか。これからやろ」と澤田さんが私の頭をくしゃ、と撫でたのでびっくりした。「ひゃっ」と言って飛び起きようとして、テーブルの縁に頭をごちんとぶつけ、長椅子から転がり落ちた。「いたた」
「大丈夫かー?」と澤田さんは椅子からしゃがんでテーブルの下に頭を入れてこちらを覗いた。大柄な彼が休憩所の明かりを遮って、テーブルの下は暗くなった。
突然怖くなった。
「…いや」
「由加?」
「いや、いや、怖い」
逃げだそうとするがテーブルの下は狭く、私はテーブルの脚や長椅子にごちごちとぶつかった。「いやだ、やめて」
ガタンと大きな音がして不意に明るくなった。澤田さんがテーブルをずらしたのだ。立ち上がった彼は私を見下ろしてひどく驚いた顔をしていた。私はそれを見て、ああ、と床に転がって丸まった。震えが止まらなかった。
大丈夫、もう暗くない。どこにも落ちない。大丈夫。
自分に言い聞かせていると、澤田さんが私の傍らに膝を突いて「何がそんなに怖いねん」と訊いた。
「…暗いのが」
「ええ?」
「暗いとどこかに落ちそうなの。怖いの」
澤田さんは「落ち…?」と呟き、私を起こそうと肩に手を置いた。
「触らないで」
思わず叫んでしまった。彼はぱっと手を退けた。
「…ごめん。自分で起きられる…」
ゆっくりと起き上がって髪を掻き上げた。「もう、大丈夫だから」澤田さんの顔を見られない。涙が出そうだったのだ。
「…行かなくちゃ」
「あ、ああ。俺も…」
彼がテーブルを戻す間に、私はふらふらと休憩所を離れた。背後で彼が心配して私を見ているのが判っていたが、早く一人になりたかった。
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